★ 【サクラサク】阿鼻叫喚!? 血と汗と涙の極楽お花見パーティへようこそ! ★
<オープニング>

「……いい天気だ。気分が和やかになるな」
 なみなみと日本酒の注がれた紙コップを片手に唯瑞貴はつぶやいた。
 空は晴天、日はあたたか、風は爽やか。
「宴会日和だな、うん」
 頭上では、満開の桜が静かな風にそよぎ、唯瑞貴の目を楽しませてくれる。
「……しかし、皆まだ来ないのか。そろそろ待ちくたびれてきたんだが……」
 青々、広々とした茣蓙(ござ)を見渡して、唯瑞貴は小さなあくびをした。
 ――唯瑞貴がこの花見の場所取りを義兄の側近アスタロトに頼まれて……もとい、前回の銀幕ジャーナルの内容をネタに脅されて命じられて、すでに三日が経っていた。
 義兄にあれを見られるくらいなら無間大峡谷から飛び降りた方がマシだと思う唯瑞貴は、逆らうことも出来ずにその『お願い』を聞き入れたわけだが、せっかく、桜の大木が所狭しと並び、薄紅色の花でうずまってしまいそうな、絶景ポイントとでも言うべき場所を確保したのに、一体何を手間取っているのか、地獄の愉快な仲間たちはなかなか現れない。
 というか普通三日も待たないだろう、と常識的な方々にあちこちから突っ込まれそうだが、映画の中でも野営や野宿に慣れている唯瑞貴にとって、春のうららかな気候の中、三日やそこらを外で寝泊りすることなど苦痛でもなんでもない。
 おまけに手元には、唯瑞貴の境遇を不憫がった、もうひとりの義兄の側近ベルゼブルが、陣中見舞いだと一升瓶三本と大量のつまみを差し入れてくれていたので、唯瑞貴は何の疑問も持たずにおとなしく場所取りに専念していたのである。
 しかし、せっかくの美しい桜を横にしながら、自分ひとりで三日というのはやはり少々退屈だ。
 こんなことなら携帯電話とかいうものを借りて、誰か知り合いに連絡でも取ればよかった、などと思いながら紙コップを傾けていた唯瑞貴は、
「お待たせ、唯瑞貴君」
 背後から唐突に響いたその美声に飛び上がりそうになった。
「れッ……!?」
 最近すっかりイロモノ扱いされているが、唯瑞貴は『天獄聖大戦』内でも屈指と言われる武人だ。
 気配がなかったことに驚いたのではないし、命の危機を感じたわけでもない。
 ただ、声の主に、ほんの数日前、恐ろしい目に合わされただけのことだ。
「レーギーナ……」
 恐る恐る振り向くと、そこには、やはり、輝かんばかりに美しい、神々しい女が、七人の美しい娘たちを従えて、満面の笑みとともにたたずんでいた。
 彼女らの手には、一目で極上と判る、彩りも美しいスイーツの姿があった。
 何故か娘たちの半分は、到底食品を入れるものとは思えない、大きなバスケットのようなケースを持っていたが、それをいぶかしく思うより早く、八人の背後に、先日の事件で知り合った、顔こそ怖いが気のいい妖怪大王の姿を認め、唯瑞貴は瞬きをする。
 彼もまた、手に大きなトレイを持っていたのだ。
「真禮(シンラ)……あなたまで」
 唯瑞貴がつぶやくと、真禮は精悍に整った顔に闊達な笑みを載せ、
「久しいな……というほどには離れておらぬか。先日はすまなんだな、オレの都合に巻き込んで」
 白い牙を見せて晴れやかに笑った。
 そこらの人間よりよほど気のいい妖怪の男に、唯瑞貴は苦笑して首を横に振った。
「いや、私たちも楽しい思いをさせてもらった、気にしないでくれ」
「そうか、そう言ってもらえるとオレも助かる。それよりもユズ、今日はどういう集まりなのだ?」
「……その呼び名は可及的速やかに記憶から消去していただけるとありがたいのだが、それはさておき、私は地獄の連中が花見をすると聞いていたんだけどな。『楽園』のメンバーも参加するようだな、その様子だと」
 そう遠い過去ではない恐怖の時間を思い出し、乾いた笑いを漏らしつつ唯瑞貴が言うと、
「ええ、あなたのお義兄様からお誘いいただいたのよ、最近わたくしたちは魔王陛下と懇意にさせていただいているから」
 にっこりと美しく笑った女王陛下が説明してくれる。
「そういうことか。まぁ、賑やかなのは悪くない、いいんじゃないか?」
「おお、それはオレも思うぞ。『楽園』で厨房に立たせてもらって何回目かになるが、楽しく飯を食ってもらえるのは本当に嬉しいことだからな」
「そうね、わたくしもそう思うわ。特に真禮の腕は最高ですもの、彼の料理を口に出来たものは幸いよ」
「……レーギーナよ、そう褒められては照れるではないか」
「あら、事実を言っただけですもの」
 妙に親密な気配だが、これは別に色恋とかそういうレベルの話ではなく、絶対的な力と、絶対的な立ち位置とを持つ幻想の生き物が、世界や性別を超えて判り合っているというだけのことだ。
 森の娘たちが手際よく料理やスイーツを並べてゆく中、壊滅的に不器用な唯瑞貴は、せっかくのご馳走を駄目にしてしまっては申し訳ないと、茣蓙の隅っこで紙コップの酒を舐めていた。
 何せ義兄には人間としての日常生活が送れない男の烙印を押されているくらいなのだ。精魂込めた料理を台無しにしてレーギーナに激怒されるくらいなら、無理して手など出さないに限る。
 そんなことを考えていた唯瑞貴だったが、そうだわ、と手を打ったレーギーナが、
「どうせだから、銀幕市の方も少しお招きしたらどうかしら。場所は充分あるみたいだし」
 そう言って周囲を見渡したので、瞬きをして彼女を見上げた。
 ――悪くない、と思ったのは事実だ。
 何せ、銀幕市の個性的な人々は、いつも驚くほどたくさんの刺激をくれる。
 いいんじゃないか、と言おうとした唯瑞貴は、しかし、にこにこ笑った森の娘たちの手の、大きなバスケットから、光沢のあるベビー・ピンクの布がはみ出ているのに気づいて酒を噴きそうになった。
「あら、どうかした、唯瑞貴君?」
「……いや、なんでもない……」
 まさか、と思いはしたが、口に出してとばっちりを被るのはごめんだ。
「じゃあ、ちょっと、呼びかけてくるわね。美味しいお料理と、スイーツと、お茶とお酒なんて、素晴らしいじゃない?」
 うきうき、といった印象の女王陛下が、ゆったりとした足取りで町の方角へ歩いてゆくのを、唯瑞貴は引きつった笑顔で見送った。
 グッドラック。
 そんな言葉が脳裏をよぎる。
 誰に対してのものなのかはわからないが。
『すまないな、唯瑞貴。ずいぶん待たせてしまった……旧竜たちが熱暴走を起こしそうになって、その対処に手間取ってしまったんだ。お前には迷惑を書けた分、美味い酒と料理を持ってきたから、これで勘弁してくれよ。……ん、どうかしたのか?』
 そこから数分後、巨大なと表現するしかなさそうな重箱と、軽く十を超える酒瓶を手に現れた義兄の、穏やかな声に安堵半分冷や汗半分、唯瑞貴はなんでもないと首を横に振る。
 ゲートルードの背後に、側近や魔王、猛者で鳴らした地獄住民たちの姿を認め、祭の開始が刻一刻と近づいていることをひしひしと感じつつ、唯瑞貴は、
(……できれば、何事も、起こりませんように……)
 誰にともなく、祈りの言葉をつぶやいていたのだった。

 ――無論、虚しい祈りと理解していないわけではなかったが。

種別名シナリオ 管理番号90
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さん今晩は、イベントに乗っかって新しいシナリオのお誘いに参りました。

今回は(も、と表記するべきでしょうか)90%コメディ仕立てのシナリオとなっております。
今回はかなり自由度の高いシナリオで、一定のライン以上には物語を定めておりませんので、皆さまのプレイングによってはいくらでも変化します。自分が何をしたいか、誰に何をさせたいかをプレイングに書いていただければと思います(もっとも、タイトルを見ていただければドタバタ大騒ぎになるだろうことは想像に難くないと思いますが……)。

地獄のメインキャストにカフェ『楽園』の愉快な仲間たち、強面男前妖幻大王までそろったある意味豪華なこの顔ぶれと、この機会に親交を暖めていただければ幸いでございます。

なお、ラスト10%でちょっとしんみりほのぼの行きたいなぁと思わなくもないので、よろしければ、銀幕市に魔法がかかってからのよい思い出や、新しい仲間への思い入れなどを語っていただければと思います(そんな小ッ恥ずかしいこと出来るかァ! という方はスルーで構いません)。

賑やかで楽しいお花見が出来ればと思います。皆さんのご参加、お待ちしております。

参加者
八之 銀二(cwuh7563) ムービースター 男 37歳 元・ヤクザ(極道)
フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
本気☆狩る仮面 あーる(cyrd6650) ムービースター 男 15歳 謎の正義のヒーロー
トト・エドラグラ(cszx6205) ムービースター 男 28歳 狂戦士
<ノベル>

 その、巨大な桜が綾なる薄紅色で天空を飾り、銀幕市の人々の目を楽しませた日。

 桜の美しさとは何の関係もなく、一芸会場と銘打たれた桜並木の一角で、異様な盛り上がりを見せつつ『ドキッ☆ 男だ(ら)けのハッピーウエディング・ファッションショウ!』が幕を閉じた。
 総勢十八名+一羽の被害者を出したこの催しは、森の女王レーギーナが残して行った黄金薔薇の結界が引き金になって激化したという、激烈に目に痛いムービーハザードもといブライダルハザードだったが、被害者たちが骨肉の争いを繰り広げる、漢(ヲトコ)たちが次々と女言葉になる、粛々と美々しい花嫁同士の結婚式が執り行われる、どこからともなくスタッフロールが流れるなどの、雄々しくも珍妙な事態を引き起こす結果となった。
 市役所が花見の終了を告げ、被害者たちはようやく日常に戻れると安堵して、三々五々帰って行ったが、中には追い討ちをかけるかのように非日常へ引きずり込まれたものもいる。
 それが、とある事情で帰るに帰れず、巨大桜の根元に残っていた八之銀二と理月である。
「……そろそろこの目に痛いモノを脱ぎてぇなぁ……」
「ああ、アタシも同感だy……もといッ! 俺も同感だ。心の底から。このままだと銀子に意識を侵食されそうでものすごく怖い」
「まったく雄々しすぎるよ銀子姐さん。しかし、何で、他の皆は元に戻れたのに俺たちだけこのまんまなんだ?」
「そんな難解なこと、俺に訊かないでくれ。森の女王の素敵☆マジックの原理なんぞ判るはずがない」
 完璧なメイクでそこそこ女性に化けてはいるものの、明らかに女性ではありえないいい年こいた男ふたり、純白のウエディング・ドレスに身を包んだまま深々と溜め息をつく。
 すでに色々な関係者の皆さまに見られてしまい、今更じたばたする意味もなかったが、他の面子がまるで夢から醒めるかのように平素の衣装に戻り、家路へと向かったのに、何故自分たちだけがこの目にしみるドレス姿のままなのかと考えるだけでも胃が痛い。
「……このままじゃ俺、家にすら帰れねぇんだけど……」
 まさか、一生脱げなかったらどうしよう、などと、不吉な考えがチラリと脳裏をよぎり、理月が胃の辺りを押さえた時、
「あらあら、こんなところに可愛らしい花嫁さんがふたりも。ちょうどよかったわ」
 うふふ、という楽しげな笑い声とともに、背後から、ものすごく聞き覚えのある、凄艶に美しい声が響き、ふたりは思わず飛び上がりそうになる。
 心臓が口から飛び出しそうになる、という種類の驚きだ。
「れ、ッ!?」
「……ギー、ナ、君。何か用事があって帰ったんじゃなかったのか? その、どうして、ここに……?」
 振り向くまでもなく、ふたりの後ろにいたのは、諸悪の根源と書いてレーギーナと読む、黄金薔薇結界の持ち主である森の女王だ。
 銀二と理月が恐る恐る向き合うと、レーギーナはまさに大輪の薔薇のような美しい笑みを浮かべ、
「本当に素敵よ、銀子さん。何でも、ご兄弟とご姉妹になられたとか? きっと絆が強まったわね、素晴らしいことだわ」
「ぐはっ!」
「理子さんもとっても可愛らしいわよ。何でも、もう嫁ぐ相手が決まっておられるとか? 幸せになってね」
「ぅえッ!?」
 ふたりの臓腑を抉る、しかし明らかに本心からと判る言葉を口にした。
 無論、本心からだろうが嘘偽りのない賛辞だろうが、言われた方のダメージは甚大である。
「いやその、間違ってもブラックでホワイトだとかは口にしない方向性でお願いしたいんだがッ!」
「って、え、嫁ぐ相手って決まってんのか!? いつの間に!? っていうかむしろ誰だよそれ!?」
 双方が目を剥き、素でツッコミを入れる中、レーギーナは、まったくふたりの様子など気にはしていない風情で、それはさておき、とあっさり話題を変換させ、美しい仕草でぽんと両手を打った。
「今から、あちらで地獄の方々とお花見をするのよ。銀幕市の皆さんもお招きしようと思って来たのだけど、もうほとんどの方は帰ってしまわれたのね。すでにふたりはお招きしてあるのだけれど、お客様はもう少しいらっしゃる方が楽しいわ。せっかくだから、来てくださらない? わたくしの招待、受けていただけるかしら」
 もうちょっと雰囲気読もうぜっていうか俺たちのツッコミ無視かよ、といった風情でレーギーナを見ていたふたりだったが、彼女が口にした言葉に顔を見合わせた。
「……花見か」
「ええ。真禮(シンラ)とゲートルードさんがお料理を、わたくしの娘がお菓子を用意したわ。ゲートルードさんはお酒をたくさん持って来てくださったし、わたくしも特製のお茶をお持ちしたのよ。どう?」
「『楽園』のスイーツが食えるんなら悪くねぇな。どうするよ、銀二さん?」
「そうだな、ここで受けんようでは銀幕市民は名乗れんか」
 再度顔を見合わせ、かすかに笑った銀二と理月がうなずくと、レーギーナもまた嬉しそうに笑った。
 ……そうやって笑っている様などは、高貴な印象を与えはするものの、ただ、たおやかで美しい女でしかないのだが、これで地獄の獄卒より恐ろしいことを仕出かしてくれるから油断がならない。
 外見などというものは、まったくもって当てにならない代物である。
 特にこの銀幕市においては。
「では、こちらへ。案内するわ」
 言ってシンプルなドレスの裾を翻したレーギーナを、情けない表情をした理月が呼び止める。
「ちょっと待ってくれ、さすがにこの格好で行くのは勘弁だ。つーかこれじゃ歩けねぇし」
「あら、そう?」
「そうだよ! なあ銀二さん」
「ああ、出来れば元の服に戻してもらいたいんだが。そもそも、他の皆は普通に戻ったのに、何で俺たちだけこの格好のままだったんだ?」
「終わりが来れば戻るようにセットして行ったはずだけど……力が『絡んだ』かしらね。たまにあるのよ、霊的なエネルギーが絡み合い屈折して、元々の姿を忘れてしまうの。特に今回のあれは少し複雑だったから」
「って、それってつまり、ここであんたと再会出来なかったらエライことになってたってことなんじゃ……」
「そうね、この規模の絡み方だと、十日くらいはウエディング・ドレスのままだったんじゃないかしら」
 おとなしく残っておいてよかった……!
 さらりとしたレーギーナの言葉に、双方言葉もなく自分たちの判断を褒め称える。あの時業を煮やして帰っていたら、更なる危機にさらされるところだったわけだ。悔やむに悔やめない。
「なら、ひとまず解除を頼む」
「ええ」
 言いつつ、レーギーナは動こうとしない。
「……?」
 訝しげに首をかしげた銀二がレーギーナを見ると、彼女は嫣然と微笑んだ。
「あら……気づいておられないの?」
 さらり、と音を立てて、黄金の花びらが舞い散るようなイメージが脳裏を翻る。
 見下ろしてみれば、すでに、ふたりとも、いつもの白いスーツと、漆黒の武装に戻っている。顔や髪に触れてみても、メイクやヘアセットの痕跡すら見当たらず、いつの間に変わっていたのか、さっぱり判らない。
 あまりの早変わりぶりに目をしばたたかせるふたりに、レーギーナは深い笑みを浮かべた。
「わたくしは神代の森の女王。仮にも、神属の存在ですもの」
 そんな、答えにもならない言葉とともに、レーギーナはふたりを手招きする。
「さあ、では、行きましょうか。皆が待っているわ」
 もちろん、ようやく元の姿に戻れたふたりに否やのあろうはずもなく、銀二と理月は並んでレーギーナの背を追う。
 ――ふたりは女装から逃れられた開放感にすっかり安堵していたため、前方を行くレーギーナの、
「そうね、ずっとウエディング・ドレスでは飽きてしまうもの。ここはやはり、お色直しと行くしかないわよね」
 などというつぶやきは、幸か不幸か耳に入らなかった。



 花見会場は、桜並木の奥まった位置にある、花に埋もれてしまいそうな一角に設置されていた。
「おお、見事だな。花に酔いそうだ」
「確かに。この風景はホント独特だよな、感性に訴えかけるっていうか」
「そうだな、他に喩えようのない花だ。ん、あれはトト君と、」
「アル……じゃなくてあーるか。音速で消えたと思ったら今度は本気☆狩るの扮装かよ……アイツも大変だな。お、唯瑞貴もいる」
 かなりの広範囲に敷き詰められた茣蓙(ござ)の上では、明らかに地獄の住民と判る悪鬼悪魔たちや、たおやかな外見に似合わず現在では(一部の銀幕市民に)地獄の獄卒より恐れられている森の娘たち、そして人の好い妖怪大王真禮が忙しく、楽しげに立ち働いている。
 茣蓙に所狭しと並べられた料理や酒の数々が、遠目からも食欲を刺激する。
 茣蓙の隅っこに、金色の獅子型獣人トト・エドラグラと、重い宿業を背負った吸血鬼でありながら現在ではややイロモノ化しつつある本気☆狩る仮面あーる、同じく凄腕美形剣士という設定のはずなのに厄介事巻き込まれ体質を思う存分開花させつつある唯瑞貴の姿を認めて、銀二と理月は破顔した。
 こちらに気づいたらしく、トトが笑って手を振った。
 そのトトの、見事に輝く鬣(たてがみ)を、あーるが楽しげに三つ編みにしている。ふわふわした金色の鬣に手を突っ込んだあーるは、なんだかとても幸せそうだ。
「よう、銀二さん理月さん。あんたたちも女王様に誘われて来たのかい?」
「ああ、美味い飯に酒に甘味とくれば乗らないわけには行かんだろう。そういうトト君もか」
「うん、オレは匂いにつられて来たんだけどな。地獄の皆とは顔見知りだし、是非寄ってけって言われたんでお言葉に甘えたんだ。たまんねぇよなー、この匂い! あー、ハラ減った!」
「本当にいい匂いですよね。ぼ……私は、本当はパトロールの最中なんですけど、お誘いいただいたのでつい来てしまいました。でも、せっかくなので、真禮さんが持って来られた仙桃酒をいただきたいです」
「酒かー、オレはマタタビ酒以外なら何でもいいや。マタタビ酒は美味いけど、飲むと全部忘れちまうからなー」
「……そんなトトも可愛くていいと俺は思うぞ?」
「理月さん、目が真剣すぎて怖いです」
 などというのんきな会話が繰り広げられる中、彼らの近くで紙コップの酒を舐めていた唯瑞貴が、唐突に顔を引きつらせた。
 タイミングよくゲートルードが彼を呼び、何かの用事を頼んだため、そそくさと立ち上がり、逃げていってしまう。
「あれ、唯瑞貴……?」
 最初にそれに気づいたのは理月で、銀の双眸が不思議そうに唯瑞貴の後姿を見送ったあと、『それ』に気づいて見開かれる。黒い肌なので判るはずもないのだが、心持ち顔色が悪くなったような印象だ。
「え、ちょ、それ……」
「ぅおぉい!? いやいやいや、それは不味いだろさすがに!」
 次に銀二が気づいて目を剥き、
「え、どうなさったんですかおふたりと、も……!?」
 夢中でトトの鬣を編んでいたあーるが絶句する。
 まだ被害に遭ったことのないトトだけは、
「うわー……なんか、びっくりするほど豪華だな……」
 などと、素朴な感想を漏らしていたが。
 何にせよ、
「さあ、皆さん? せっかくですから、お色直しをいたしましょう。リーリウムの新作なのよ、とっても素敵に仕上がっているわ」
 ――レーギーナと森の娘たちが、ベビー・ピンクを筆頭としたゴスロリワンピースやメイク道具その他を手に、にこにこ笑いながら四人をロックオン! していることに変わりはなかった。
「いやいや、ちょ、ちょっと待とうぜ女王様! 大体、さっきウエディング・ドレスとかいう心臓に悪ぃもん着たばっかなんだ、何もそんな頑張らなくてもいいんじゃねぇかと思う次第なんだが!」
「そうですよ、それにほら、これからご飯を食べたりお酒を飲んだりしますし、飲食でせっかくの美しい衣装を汚しては申し訳ありませんから、ね! というかあのセクハラ乱れ打ちは正直辛……ッ」
「まったくもってその通り! 魔王陛下を筆頭とした地獄の貴賓もいらっしゃ……いや、魔王陛下はすでに我々を超越してあの格好だからなんとも言えないが、その、なんだ。あまり見苦しいものをさらすのも申し訳ないだろう。な、そうだよな!?」
 お色直しの是非はともかく、何故女装なのか、何故ゴシック&ロリータなのかという疑問は恐らく無意味なのだろう。何故ならそれが森の女王クオリティ☆ だからだ。
 ――などと、全身全霊で突っ込みつつも、実際にはそろそろ達観しつつある被害者たちである。
 だから、もちろんのこと、にっこりと美しく、反省の色皆無で笑ったレーギーナが、
「そうね……では、この際だから、いつものように、問答無用で行きましょう」
 と、植物を呼び寄せ、招待客と書いて被害者と読む面々にけしかけたことも、実を言うと予想の範囲内だったわけだが、逃げるに逃げられなかったこともまた、予想の範囲内である。



「あー……しかし、ホントに目にしみるな、これ……」
 まったく嬉しくないがすっかり手馴れてしまったらしい娘たちによって一番に仕上げられた銀二が、挫けそうな心を叱咤激励しつつ、何とか平静を保って宴会のセッティングを手伝っていると、阿鼻叫喚の地獄絵図と化しつつある一角を興味深げに見つめながら、
「そういえば、ユズはやらぬのか、彼らのように。前のあれも美しかったぞ?」
 真禮が、悪意が一切ないからこそタチの悪い、唯瑞貴的には死刑宣告にも等しい言葉を口にした。
『ん? 唯瑞貴、ユズとは誰のことだ? 前のあれとは……?』
 それを耳にしたゲートルードが、林檎の皮を亜光速で剥きながら首をかしげ、唯瑞貴は義兄の視線を感じてか青褪める。
「いや、何のことかさっぱり。……ん、そうか真禮、柚子が要るのか。柚子ならこれだぞ?」
「いっそ清々しいほどの誤魔化し行動がとっても素敵だが、残念ながら唯瑞貴君、それはザボンだ」
「なら、これだな」
「それは文旦だ」
「……では、これか?」
「うーん、惜しい。いやちっとも惜しくねぇ! それは晩白柚(ばんぺいゆ)だ! 明らかにサイズが違いすぎるだろ! っていうか何でこんなビッグサイズの柑橘が季節無視で勢ぞろいしてんだこの宴会場!?」
「植物を友とするレーギーナがおるのだ、木々に頼んで少しだけ果物を作ってもらうことなど容易いぞ。しかし銀二、いや今は銀子か、そなたのそれはなかなかに衝撃的だな。よく似合っておるぞ」
「くぅ、素直に似合ってなくて眼に痛いと言ってもらった方が心の平安が保てる気がする……ッ」
 義兄に『装う人々』の銀幕ジャーナルを見せないために走り回ったという唯瑞貴が、レーギーナたちがデザート用にと持ち込んだフルーツの群から、子供の顔ほどもありそうな特大柑橘を手にし、真顔で間抜けな誤魔化し劇を繰り広げる中、森の女王と素敵な仲間たちが主催する『絶叫! お色直し大会』は大方終わっていた。
 銀二はデフォルトのごとくにベビー・ピンク、あーるはスノー・ホワイト、理月はローズ・レッド、トトはサファイア・ブルー。
 フリルとレースとリボンに彩られた高価な別珍(ベルベット)のワンピースに、スカートのかたちを美しく見せるチュールパニエ、薔薇が刺繍されたレースのヘッドドレス、リボンとレースの白ハイソックス。
 美々しくもフェティッシュな衣装に身を包まされた面々が、男としての色々な何かを試されながら、茣蓙の隅っこで落ち込んでいる。お着替えの時間中は悲鳴と絶叫のオンパレードだったが、今や叫ぶ余力もないらしい。
「うううっ、ようやくウエディング・ドレスから開放されたと思ったら今度はこれかよ! もう、どっちがマシとかそういう問題じゃねぇしッ。つーか、傭兵としてのスキルにまったく関係ねぇよ、女装なんてッ」
 理月は顔を覆ってさめざめ泣き、
「せ、せめて白は勘弁してくださいと言ったのに……ッ。おまけにまた色々と人には言えないようなところまで見られたし触られましたし! 女の人って、みんなあんな風に怖い生き物なんでしょうか……」
 純白のラブリー☆仮面アルナになってしまったあーるが、膝を抱えて女の恐ろしさについてぶつぶつつぶやく。
 しかし、初めて被害者になったトト・エドラグラはごくごく普通に平静で、狼狽するでも哀しむでも取り乱すでもなく、どちらかというと物珍しげに自分の衣装を見つめている。
「……トトは平気なのか、そういうの?」
 それを訝しく思ったらしい理月が、涙目のままそう問うと、トトは猫っぽい仕草で小さく首をかしげた。
「そりゃ驚いたけどな。いやホラ、いつもより被覆率高いし?」
「え、問題そこだけかよ!?」
「……うん、ちょっと暑いかな」
「いやいやいや、それだけの問題でもねぇだろ!」
 どうやら、そもそも服を着るという行為に頓着がないらしい獣人は、服の種類にはあまりこだわらないらしく、返る答えも恐ろしくずれている。
 理月が思う存分突っ込み、あーるが乾いた笑いを漏らす中、トトはというと銀二をじーっと見つめていた。緑色の鮮やかな目に、不思議な感嘆の光を感じ取り、銀二が首をかしげる。
「どうした、トト君?」
「いや……うん、いいなぁって思って」
「?」
「……不躾を承知で言うんだが」
「ああ」
「是非、我が部族の嫁に来てくれ」
「ふむ、そうか、判っ……らねぇよ! なんでだ!」
「我が獣王族は、あんたみてぇな漢女(ヲトメ)を待ってたんだ。あんたなら、間違いなく強くて丈夫な子供を生んでくれそうだからな」
「いやいやいや、確かに衣装こそこれだけどな!? 俺は完璧に、間違いなく生物学的に雄なわけでな!? 基本的にっつーか絶対的に、嫁にも行けなけりゃ、子供も生めないから! つーか生めたら怖ぇよ!」
「まぁ、その辺りは試してみなきゃ判らねぇしさ。そんなわけで、是非」
「是非もクソもない! 何回試しても結果は一緒だ!」
「……そうか、残念だ……」
 ふぅ、と、残念そうにアンニュイな溜め息をつくゴスロリ姿の獣人に、価値観の違いって恐ろしい、と銀二は思わず戦慄する。この分だと、獣王族の女は、銀二もびっくりするような猛者たちばかりに違いない。
 何にせよ、着替えが終わってしまったことは事実で、目に痛い女装群にまったく動じていない(魔王陛下が平素からアレなのだから当然といえば当然なのだが)地獄からの面々と、諸悪の根源たる『楽園』の女たちが談笑しながら茣蓙に腰掛け、一同を手招きする。
 一番美しい桜の真下に設けられた、魔王陛下と地獄の貴賓たちの席の傍に、銀幕市民用の空間があけてあった。
 顔を見合わせ、溜め息とともに苦笑した四人が、じゃあ、と茣蓙に上がろうとした、そのとき。

 ――ざああッ、と、強い風が吹いた。

『おや……』
 空を見上げ、ゲートルードが黄金の目を細める。
 魔王陛下と女王陛下は、美しい紅唇を芸術的な笑みのかたちにして空を見ていた。
 風は強く渦巻き、どこか喜ばしい『力』をはらんで、活き活きと薫り高く、胸の奥を清冽にした。
 一体なにごとか、と、一同が周囲を見渡す中、ばさり、という大きな羽音が聞こえたかと思うと、
「おおーい、どこ行ったー? ここかー?」
 心地よく響く、音楽的な美声とともに、空から、純白の四枚翼をはためかせ、ひとりの青年が降ってきた。
 まぶしいほど白い、美しい翼の起こす風で、さらさらと散った花びらが、まるで渦を巻くように青年の周囲を舞い踊る。優美な舞を見ているかのような錯覚を与えるワンシーンだった。
 同時に、そこに喜ばしい、光り輝くようなエネルギーが満ちていることを、ファンタジーではない映画から実体化した銀二ですら、ひしひしと感じ取っていた。
 大気に満ちる何かが喜んで笑いさんざめくような、そんな錯覚を覚える。
「……あれ、違ったか。どこ行ったんだろな、ホントに……」
 ゆったりとした動作で着地し、背の翼をはためかせた青年は、長くつややかな黒髪と、まぶしい黄金の目を持った、長身痩躯の、繊細に整った美麗な顔立ちの人物だった。
 胸の部分に黒字で『Love The Foolishness!』とプリントされ、奇抜なカットを施された七分丈の白いシャツに、黒いざっくりしたコットンのジャケットを羽織り、履き込まれて綺麗に色落ちしたジーンズを履いて、パンクな印象を与える革のブーツで足元を固めている。
 鋭い目つきと雰囲気の、いわゆる美青年というやつだったが、何よりも彼の持つ気配が高らかに謳うのは、彼が偉大な力によってかたち作られた聖なる存在だということだった。
「……天使、ですか」
 ぽつり、とあーるがつぶやくと、青年が茣蓙の面々を見やった。
 そして、思いの他人懐こい、明るい笑顔を見せる。
「俺はフェイファー、偉大な天使様だ。同居人を探しに来たんだが……ここじゃなかったみてぇだな」
「フェイファーさん……ああ、もしかしすると、その同居人さんとやらは美大生の方ではありませんか?」
「お、知ってんのか。アイツのことどっかで見かけなかったか?」
「いえ……見ていませんね。市主催のお花見も終わりましたし、もしかしてもう帰宅しておられるのでは?」
「そうか、そうかも知れねぇなー。んじゃ、いったん戻ってみるか……っと、しかし、いい匂いだな」
 あーるの言葉にうなずいた青年、フェイファーが、茣蓙の上に所狭しと並べられたご馳走の数々を前に目を細める。
 それを見たゲートルードとレーギーナが顔を見合わせ、にっこり笑った。考えていることは同じ、という表情だ。
『もしもお時間に都合がつかれるようなら、フェイファーさんも、我々の花見パーティに参加されませんか? よろしければ、是非』
「お料理も、お酒も、お菓子もお茶も、最高のものがすべてそろっているわ。きっと楽しいわよ」
 言われた方はしばし黙って考え込んでいたが、ややあってぱちんと指を鳴らしてうなずいた。彼の周囲で、喜びを含んだ風がさっと渦巻く。
「ま、アイツに関しちゃ心配する必要もねぇだろうしな。んじゃま、お言葉に甘えて、いっちょお邪魔するぜー?」
 嬉しげに笑い、優雅に一礼してみせてから茣蓙に歩み寄ったフェイファーだったが、その黄金の視線が、茣蓙の中央に咲いた色鮮やかな徒花(あだばな)に行き着くや、彼はものすごく訝しげな顔をした。
 自分たちが見られていることに気づいた銀二と理月がさっと目をそらす。
「なぁ、ひとつ訊いてもいいか?」
「あら、どうかなさった?」
「いや……俺もそこそこ、流行り廃りには敏感なつもりなんだが。今、銀幕市では男が女に化けるのが流行ってんのか?」
「ええ、そうよ。絶賛大流行中なの」
 この嘘八百女王陛下めっ☆ と、誰もが現実逃避風味の突っ込みを入れずにはいられない程度には自然に、ゴスロリ姿の面々が色々な疑惑を否定するよりも早く、レーギーナがフェイファーの疑問を肯定してしまう。
 フェイファーの表情が微妙に生温くなった。
「そうか……俺の知らない間に、愚民どもにはそんな奇抜な流行が発生してたのか。人間ってのはやっぱ、よく判らねぇ生き物だな……」
 フゥ、と、先刻のトトと同じようなアンニュイな溜め息をついたフェイファーが、血を吐きそうな表情をしている銀二、理月、あーる、事態をあまり理解していないトトを順番に見つめて肩をすくめる。
「まぁ、人の趣味はそれぞれだしな」
「いや、ちょ、待てッ。別にこれは趣味というわけでは……!」
「俺は寛大な天使だから、それで見る目を変えたりはしねぇよ。……でもなるべく近寄んな変態愚民ども」
「ってオィ! 清々しいほど思いっきり変えてんじゃねぇか! だから変態じゃねぇって!」
「というか天使が何故人間を愚民呼ばわり……。いえ、この格好を見られて愚民ではないのかと問われても巧く返答しようがないのですが……」
「ってかさ、あの翼って焼いたら食えるかな。四枚あったら結構食いでがありそうだよな」
「トト、そういう野生っぽいとこも可愛いとは思うんだが、出来れば時と場合を考えてくれ」
「野生なら火は使いませんとかいうツッコミはさておき、そういう理月さんも時と場合を考えてください。思い切り目尻が下がってますよ」
 フェイファーの物言いにあちこちから突っ込み(一部ボケ)の声が上がる中、森の女王は黙ってそれらのやり取りを見つめていたが、ややあってゆっくりとフェイファーに向き直り、口を開いた。
 絶妙のフォローなど期待できる相手ではないと思いつつ、一同、わずかな希望を込めて女王を見つめる。
「いいえ、違うわ、フェイファーさん」
「ん? どういうことだ?」
「これは使命なの。彼ら……いいえ、彼女らは、美という名の幸いをこの銀幕市にもたらすために遣わされた聖女たちなのよ」
「へえ……」
 そういう更なる誤解を招きそうな方向性のフォローはやめてくださいお願いしますッ!
 フォローというよりはむしろ、混乱及び疑惑を助長させかねないレーギーナの言葉に、良識ある銀幕市民三人が血を吐きそうな顔で胸中に突っ込む。そろそろツッコミ役が板につきつつある銀二などは、虚空に向かって鋭く裏拳を放っていた。
 しかし、使命だとか聖女だとかそういう言葉は、聖なる生き物であり、至上の存在に仕えるフェイファーにはしっくりくるものだったようで、彼の、四人を見る目つきが明らかに変わった。
 敬意すら込められたそれに、三人とも、そんな純粋な目で見つめられるくらいなら変態と罵られた方がマシだった、と思った。
「だからね」
 どうやらまだ話は終わっていなかったらしく、いつの間にか漆黒のゴスロリワンピースを手にしたレーギーナが満面の笑みとともに言う。
「神聖にして偉大なるフェイファーさんにも、漢女たちを力づける意味を込めて、是非これを着てほしいのよ」
「俺か? ……正直、あんまり気乗りはしねぇんだが」
「そうね、最初は誰もが迷うわ。何故なら、とても重い責務ですもの。でも、あなたのような美しい方が同じ使命を持っていると知れば、彼女らはどんなに力づけられることでしょう。彷徨える子羊、憐れな愚民たちを導くのだと思って、引き受けてくださらないかしら?」
 嘘もここまで流暢に出てくればいっそ頼もしくすらある。
 レーギーナの静かな熱弁、それだけ聞けば世界の行く末すら左右しそうな言葉を、フェイファーは真摯な面持ちで聴いていたが、
「判った」
 ややあって、静かに、力強くうなずいた。
 そして、
「そうまで言われて突っ撥ねちゃ、天使の名に、引いては神の名に傷がつくからな。いいだろう、偉大なる天使、フェイファー様が、愚民どもを導く翼になってやろう」
 雄々しく、厳かに断言する。
 そんなわけあるかいッ! 的な、鋭いツッコミを期待していた、一同の動揺たるや相当なもので、

 天使様が丸め込まれやがった……!!

 おおー、さすが天使様はすげぇなぁー、などと、感心した様子で拍手をしているトトは置いておくとして、銀二、理月、あーるの三人はこの世の終わりのような表情をしていた。
 これでもれなく全員聖女認定である。
 またしてもまったくありがたくない称号を得ることとなりそうだ。
 胃が痛い、などとつぶやく人々を尻目に、まったく悪びれないレーギーナがにっこり笑う。
「ありがとう、フェイファーさん。では、こちらへお願いできるかしら? わたくしの娘たちが着替えをお手伝いするわ」
「おう、んじゃ世話になるぜー。ま、精々美しく頼むぜ、俺様の美貌に瑕がつかねぇようにな」
「ええ、もちろん。天女もかすむほどの仕上がりをお約束するわ」
 うきうきと、楽しげに、フェイファーを伴った『楽園』の面々が席を外す。
 しなやかな、矜持と使命感の見える背中を無言で見送って、巻き込まれ体質をほしいままにする一同は、深々と溜め息をついたのだった。



 そんなわけで、波乱含みのまま始まったお花見パーティだったが、会場は驚くほどの盛況ぶりを見せていた。
 酒に料理に楽しんだ地獄住民たちが、歌ったり踊ったりくんずほぐれつの相撲を繰り広げたりして、辺りは地響きさえ伴う賑やかさだった。
 熟練の技巧を持ってシェフを務め、今やカフェダイニング『楽園』にはなくてはならない存在になりつつある真禮は、まだイタリアンブームが続いているらしく、イタリアの伝統料理を基本に作っていたが、唯瑞貴の生活の面倒を見ているという義兄というより母親のようなゲートルードは和風のおつまみ系を中心に作ってきており、それらが、多種多様な酒によく合った。
 真禮のアンティパストには、衣のぱりぱりとした食感が楽しいモッツァレラチーズ詰め花ズッキーニのフライ、にんにくの香ばしい風味が新鮮な鰻のオリーブ油風味、玉ねぎとスモークサーモンのハーモニーが絶妙なスモークサーモンのタルタルなどなど。
 パスタを基本としたプリモピアットには素朴で懐かしい味わいのピチ(パスタの種類)のくるみソース和え、あっさり味が美味しいトマトソースで和えた野菜詰めラビオリ、スモーク風味が食欲をそそるスカモルッツァチーズとたっぷり野菜のラザニア、濃厚な味わいが嬉しい定番のスパゲティ・カルボナーラなど。
 口直し用の酢の物には、鷹の爪がアクセントになった色々野菜のマリネを大皿にいっぱい。
 動物性たんぱく質を基本としたセコンドピアットには、シンプルにして味わい深い金目鯛のガルム風味蒸し、表面のぱりぱり感と中身のしっとり感の違いが美味しい特大ドーバーソール(平目の一種)のオーブン焼き、肉の濃厚なうまみが身上の骨付き牛ロース肉のグリル、日本という国では珍しいホロホロ鳥を使ったかぼちゃ詰め・生ハム巻きのオーブン焼きなど。
 対して、ゲートルードは、何種類かの刺身の昆布締めを初めとして、春の匂いがぷんと香る筍おこわ、朝掘りの筍を炭火で焼いた筍の姿焼き、春を思わせるほろ苦さが楽しい土筆のきんぴら、薫り高い野生の独活(ウド)の天麩羅、やわらかな蕨(わらび)の卵とじ、新鮮な貝の甘味がじんわりとにじむトリ貝のつけ焼き、旬のわけぎと質のいい若布(ワカメ)を使ったぬた和え、胡桃の甘露煮や花山椒の煮浸しなど、和風の、素材そのもののよさを味わうための素朴な肴を多数用意していた。
 酒は、アペリティフ的なビールやスパークリングワインを筆頭に、日本酒に焼酎、泡盛に白酒(パイチュウ)、濃厚なる赤ワインから爽やかな白ワイン、多種多様なリキュールの他、中には蛇やトカゲ、サソリを漬け込んだゲテモノっぽい酒までが持ち込まれ、乱立している。
「しかし……うん、なんと言うか、シュールだ」
 白磁の盃に、なみなみと日本酒を注がれながら、銀二はつぶやいた。
 手元の紙皿には、山盛りにパスタが盛られている。不器用で加減を知らない唯瑞貴が配ってくれたものだ。
「どうかしたか、客人。……ああ、銀二、だったか」
 銀二のつぶやきに、白い繊手でもって彼の盃に酒を注いでいた麗人、地獄で一番の実力を持つとは到底思えないどころか、地獄で一番長生きの男性ともとても思えない魔王陛下が小さく首をかしげる。
 漆黒の生地に純白のフリルやレースで装飾がなされた、ゴシック&ロリータの真髄のごときワンピースに、純白のレースのヘッドドレス、薔薇を模(かたど)ったプラチナの指輪とそろいのネックレス、ローズを基調とした翳のあるメイク、美しく整えられた真紅の指先などなど、どこからどう見ても完璧な美少女としか思えないこの人物が、自分の数千数万倍を生きた最古の存在だと言われても、にわかには信じ難い銀二である。
 信じ難くはあるが、酒を酌み交わす相手として不足はない。
 銀二は苦笑して首を横に振った。
 魔王陛下の盃に、びっくりするほど飲みやすい酒を注ぐ。
「いや、まさか魔王陛下と同じ衣装で酒を酌み交わすことになるとは思ってもみなかったな、と」
「ふむ、よいではないか。我は楽しいぞ。それに、よく似合っておる」
「いやいや、アタシなんざ魔王陛下の麗しさに比べたら月と鼈(スッポン)ってもんだよ……って、ッシャオラアアァーッッ!!」
 自分がナチュラルに姐さん口調になっていたことに気づくや、銀二(現在銀子?)は野太く雄々しい気合声を発し、手近にあった桜の幹に勢いよく頭突きをかました。
 先刻、せっかくこんな可愛らしい出で立ちなのだからお淑やかにしゃべってね、とレーギーナに女性口調を無理強いされそうになり、必死で断ったあとのはずなのにこの体たらくだ。自分の中で銀子という人格が着々と育っているかと思うと怖くて仕方がない。
 ごしんッ、という、鈍い音がして、太く立派な幹と銀二の額とが、どちらかが砕けんばかりの勢いで激突し、その衝撃で桜の花びらが雪片のように降ってくる。
 奇声と花びらに驚いて、刺身と佃煮を肴に唯瑞貴と酒を酌み交わしていた理月がびくっと身体を震わせて振り向く。
 しかし、漆黒のゴスロリワンピース姿にすっかり慣れてしまったらしいフェイファーは、彼が愛の神に仕える天使と知った地獄の悪鬼悪魔たちが持ち込む恋愛相談に忙しく、仙桃酒ですっかり酔っ払い、全身全霊で宴会を楽しんでいるあーるはトトの鬣に夢中だ。トトはそんなあーるを微笑ましい目で見つめ、じゃれかかる少年(現少女)にくすぐったげな笑い声を立ている。
 ――総じて言えば、和やかな宴会会場だった。
 目にしみるオブジェこそあるものの。
「で、どうなんだよ? お前はその彼女とどうしてぇんだ」
「いや、その……できれば一緒になりたいなぁとは思うんですけどね。向こうは由緒正しい旧竜の家柄、俺はしがない地獄の獄卒、どう切り出していいか判らなくて……」
「馬ッ鹿お前、好きって感情の前に家柄なんざ関係あるかよ。お前がその彼女のことを本気で好きなら、まずその好きを大事にするしかねぇんだよ。後々悔やむ羽目になるのはお前なんだからな。お前の気持ちが本物なら、俺が全身全霊で護ってやる、ガツンと決めてきやがれ」
「は、はい……」
「好きな人がいるってのは本当に幸せなことなんだからな。生きる幸せってのは、愛することや愛されることにあるんだ。それは地獄だろうが天界だろうが現世だろうが変わらねぇ。そのこと、忘れんなよ」
「はいっ、判りました!」
 フェイファーの男らしい激励に、熊でも一撃で屠りそうな、しかしどこか純朴そうな三本角の鬼が、目を輝かせ、頬を紅潮させてうなずく。フェイファーはそれを見て満足げな表情を浮かべた。
 三本角が注ぐ薫り高い果実酒をぐっと呑み、ゲートルードが用立てたつまみを口にして、楽しそうに次の恋愛相談へ移る。
 彼が楽しげに言葉を紡ぐだけで、喜ばしい力がフェイファーの周囲を渦巻き、春のやわらかな空気の中、さわさわとさんざめいた。
「トトにゃんトトにゃん、今度はこのリボンを試させてくださいよぅ」
「にゃんはよせよ、恥ずかしいから。まぁいいけど。ほらあーる、こっち来い。肩車してやるから」
「うわぁい、ありがとうございますー」
「あーあー、すっかり酔っ払っちまって。オレもそんな強かねぇけどさ。まぁでも、あーるの酔っ払い方は可愛いからいいよな」
「ええー、ぼ……じゃなくて私はぁ、酔ってなんかいないれすよぅ」
 ふにゃふにゃと幸せそうに微笑んだあーるが、トトのたくましい腕に抱き上げられ、肩車されて、更に幸せそうににこにこ笑う。
「うわぁ、高いなぁー。トトにゃんは背が高くていいれすねぇ、僕ももっと身長がほしいんれすよねぇ」
「でっかすぎんのも考えもんだと思うけどな。オレ、よく鴨居に頭ぶつけて痛ぇ目見てるから」
「あはは、そっかぁ、トトにゃんも苦労してるんれすねぇ」
 底抜けに明るく笑ったあーるが、酔っていてもそれだけは変わらない身軽さで肩車から降り、酔っ払いの面目躍如、とばかりに、トトのたくましい身体に抱きついた。トトが仕方ねぇなぁなどと言いつつ笑い、あーるの背中をぽんぽんと叩く。
 これが素面で、更に、本来の姿であるアルだったとしたら、恥ずかしがってこんなことは出来なかっただろうが、酒の入った彼はほとんど無敵である。
 それに、頬を紅潮させ、にこにこと笑う彼は大変愛らしい。
 地獄住民を初め、『楽園』の娘たちもまた、微笑ましげに目を細めて彼を見ていた。
 レーギーナと四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせていたゲートルードもそのひとりで、彼は、獲物を虎視眈々と狙う猛獣そのものの目であーるを見つめていたが、実際には恐らく、微笑みながらあーるを見守っていた、程度の眼差しだ。
 しかしそれは、突き詰めてみると、あーるへの微笑ましさだけではなく、衣装への興味、憧憬も含まれていたようで、それに気づいたレーギーナがゆったりと微笑む。
「あら、もしかして……ゲートルードさんも興味がおありなの? あの、ゴシック&ロリータという衣装に」
「ええ……お恥ずかしながら。このような外見をしておりますが、このゲートルード、幼き頃は心底女性に生まれたかったと思っておりました」
「いいえ、美しいものや女性的なものに興味を持つことは恥などではないわ。大切で、素晴らしいことよ。心が華やかに、優しくなるでしょう? そうね、では、わたくしの黄金薔薇結界をお貸ししましょうか」
「……よろしいのですか?」
「ええ、もちろん。わたくしも、ゲートルードさんの晴れ姿を見てみたいもの。きっと、うっとりするほど素敵なんでしょうね」
 女王陛下の許容範囲はちょっと広すぎだと思います……!
 ついついレーギーナとゲートルードの会話を聞いてしまった自称一般銀幕市民たちが虚空に裏拳つきで突っ込む中、ゆったりとした仕草でレーギーナが手を振ると、彼女の周囲から、神々しいまでに馥郁と匂い立つ、まばゆい黄金の薔薇が顕れた。
 薔薇は期待に金瞳を輝かせるゲートルードを包み込んで、しばらくの間沈黙する。一芸会場のように悲鳴が上がらないのは、ゲートルードが望んでその姿になっているからに他ならない。
 時間にして十分が経ったころ、美しく輝いていた薔薇が、空気に解けるかのように消えてゆき、そうして現れたのは、赤銅の隆々たる体躯に、あーるとよく似た(しかしサイズは究極的に違う)純白のゴスロリワンピースに身を包んだ赤鬼閣下の姿だった。
 繊細なレースに彩られたワンピースは、フェティッシュながら確かに美しく、鋼の塊のごとき体躯を誇るゲートルードとのギャップはすさまじい。その視覚的インパクトたるや暴力的といっていいほどで、まず間違いなく子供は(下手をすると大人でも)失禁して泣き喚くだろう。
 しかし、レーギーナから鏡を受け取り、今の自分の出で立ちを確認したゲートルードは、
「……素晴らしい……!」
 興奮のあまり頬を紅潮させた。
 紅潮といってももともとが赤銅色の肌なので、どちらかというと赤黒くなった、という方が正しいのだが。
 感嘆に少し上ずった声で、万感のこもったつぶやきを漏らし、ゲートルードが感激に打ち震える。よほど気に入ったのか、スカートの裾を優雅に、淑やかにつまんで可愛らしく一礼してくれたりするのだが、はっきり言って失神級に目にしみる。
「ぅおいッ、いいからちょっと帰ってこようぜ!? そっちは多分踏み込んじゃ不味い領域だ!」
「冷静になれ、頼むから! そこで何かに目覚めるのは明らかに不味いぞ、ゲートルード君! というか、必死で色んなものを隠そうとしていた唯瑞貴君がなんか可哀想だ!」
「うう……なんか、すごい勢いで意識を現実に引きずり戻されました……。さっきまであんなにいい気持ちだったのに、なんだか、この世の終わりのような気分になってきましたし……」
「俺も、さすがにあれはどうかと思うんだー。いやほら、物事には限度ってもんがあるだろ。あそこまで行っちまうともう戻れねー気がする……」
 思う存分突っ込みつつ、どこへどう斬り込むべきか真剣に算段する面々の中、一般的な価値基準から逸脱した趣味を持つトトだけは、
「最高だ、最高に素敵だよゲートルードさん!」
 目を輝かせ、握った拳を震わせて、雄々しく力説していた。
 ゲートルードの金瞳が、同志を見つけた感動に潤んだ。
 黄金と緑の目が、双方を熱い眼差しで見つめあう。
「そういうトトさんこそ! このゲートルード、感動を抑え切れません!」
「いや、世界一素敵なのはあんたさ! 畜生、涙で目がかすむぜ……!」
「いいえ、トトさんのその美しさに私の胸は高鳴るばかりです!」
「……」
「……」
「ゲートルードさん!」
「トトさん!」
 急ピッチで盛り上がったふたり、萌えない・冴えない・目に痛いを地で行く獣人・赤鬼の屈強型女装ユニット『ブルー&ホワイト』が、互いの名をアツく呼ぶやいなや、がっちりと固い抱擁を交わす。
 熱い風がぶわりと渦巻いた。
 誰にも入り込めない世界、誰にも判らないテンションだが、本人たちは非常に幸せそうである。
 熱波の影響で、ふわり、と、サファイア・ブルーとスノー・ホワイトのベルベットスカートが白いレースのパニエとともに翻り、いわゆる下着的な役割を果たす純白のドロワーズ(フリルとレースのついたブルマと思っていただければ)をちらりと覗かせ、それを目にしてしまった良識的な面々の意識を彼岸一歩手前まで打ち据える。
「い、いっぺんに酔いが醒めましたよ……」
「ぅああ……い、今のは効いた……!」
「なんだろう、このものすごい敗北感。フェイファー様ともあろうものが、こんなに打ちひしがれる羽目になるとは思わなかったぜ……」
「ああ、なんというか、見てはいけない世界を垣間見てしまった気分だ」
 一同、呻き声を上げつつ、現実逃避さながらに盃やグラスを手に取り、料理やつまみに箸をつける。
 料理はどれもプロ級で、目に痛い光景に荒んだ心をやわらかくほぐしてくれる。あちこちから溜め息が漏れたのも当然と言えた。
「……あー、美味さがしみる。昆布締めって巧いやり方だよなぁ」
「生の魚を食べるというのは独特ですよね。理子さんの故郷でもあったのですか、こういうのは」
「確かに俺の故郷の東大陸にも生魚を食う文化はあったが、とりあえず理子さんはやめてくれアルナちゃん。美味いものを食う原始的かつ根源的な喜びが半減するから」
「いいじゃないですか、似合ってますよ。黒檀みたいな肌とローズ・レッドはよく合いますよね。いいなぁ、その肌。私なんか、こんな、面白味も何もない白ですから」
「似合ってると言われて悦ぶのはゲートルードさんだけのような気がしねぇでもねぇんだが、肌の色なんざ先天的なもんだからなぁ。嫌だとも嬉しいとも思ったことはねぇし、誰かの肌の色を羨ましいと思ったこともねぇな、俺は」
「そういうものですかね。だとしたら、ぼ、ではなくて私はたくさんのものを羨ましがりすぎなのかもしれません」
「ま、羨むことが悪いことだとは思わねぇけどな。自分にねぇものってのはまぶしいからさ。でも、あーるにはあーるのいいとこがいっぱいあるだろ? だから、それを誇るってのもいいことだと思うぜ?」
「いいところなんて、そんな、」
「……そういう、自分を勘定に入れねぇとことかな。ま、俺がやいやい言うようなことでもねぇだろうが」
 言って肩をすくめた理月が盃の酒を乾し、顔を赤くしたあーるがそれを誤魔化すように木の芽味噌をつまみ、
「まぁでも、総じて言うならいい経験だよな。こういう文化が存在するってことも判ったし、こういう料理があるってことも知ったし、酒は美味かったし。地獄の連中が可愛い恋をしてるってのも判ってよかった」
「さすがは偉大な天使、フェイファー君は懐が広いな。だがまぁ、いい経験という点に依存はないな、俺も」
「だろ? 色んな奴がいるよな、銀幕市ってさ。あんたのその格好だって、慣れてみりゃ結構可愛いぜー?」
「いやッ、そこはあんまり言及しないでもらえるとありがたいんだがッ」
「大丈夫だって、恋に落ちたりはしねぇから」
「万が一落ちられたら俺は全身全霊で逃げる所存だ。そんな予兆があったら早めに教えてくれ」
「OKOK。そのときは教えてやるよ、俺は慈悲深いからな!」
 上機嫌のフェイファーが箸で上手に切り分けた胡桃豆腐を口元へ運び、乾いた笑いをこぼした銀二が盃の焼酎をぐっと煽り、
「おっと、いけねぇ。感動のあまり我を忘れちまったぜ」
「私もです。取り乱してしまってお恥ずかしい」
「いやいや、あんたみてぇな漢女がいたら、マジで我が部族の嫁に迎え入れたいよ。一族のやつらも喜ぶと思うんだ」
「そうですか……機会があれば是非嫁いでみたいですねぇ……」
「そうだな、そんときにゃあ言祝(ことほ)ぎの宴に地獄の人たちも招待しなきゃなぁ。何にせよ、いいもん見せてくれてありがとな!」
「いえ、こちらこそ。本当に嬉しかったです」
 ようやく我に返ったトトとゲートルードが、なにやら恐ろしい言葉とともに硬い握手を交わした、そのとき。
 ――ざわわわわっ、と、宴会会場の一角がざわめいた。
 正直、参加者が多すぎてちょっとした公園くらいの規模がある宴会会場なので、会場の隅っこの方となると何が起きているのか詳細な把握は難しい。
 難しいのだが、「お前は間違ってる!」だの「てめぇの目は節穴か!」だの、「一片の疑いの余地もなく正しいのは俺だ!」だのという罵りと、肉を打ち据える硬い音やくぐもった呻き声が響いてくるとなれば、喧嘩だと想像するのは難しくない。
「やれやれ……浮かれた野郎どもがおっ始めやがったかぁ? ま、喧嘩も一興、危なくなったら俺が再生してやるよー」
 くはは! と楽しげに笑ったフェイファーがのんきに見物の姿勢に入る。
 銀二と理月は苦笑して顔を見合わせ、トトとあーるは首をかしげた。
「何で喧嘩なんて始めたんでしょうね。確かに、酔っ払うと何でも喧嘩の理由になってしまいますけど」
「ふむ……まぁ、死人までは出ないだろうが、一応止めにいくか。せっかくの楽しい花見パーティで怪我人が出るのも興醒めだしな」
「だな。……この格好で、ってのがちょっと心許ねぇけど……」
「そこはあれだ、心の鎧で戦うんだ。大丈夫、皆なら何とかなるって!」
「そんなヴァーチャルかつ電波なアーマーは要らん。保証されても困るぞ、トト君」
「ぼ……私も要りません。どんなソウルフルな鎧ですか、それは。まぁ、さておき、ひとまず行ってみましょうか。今はまだ酔っ払いの他愛ない喧嘩ですんでますけど、何せ地獄の方々ですからね。周囲を巻き込んだ大騒動にも発展しかねませんし」
 あーるの言葉にうなずき、仕方ねぇなーとつぶやいたフェイファーを含めた五人が、騒ぎの元に向かって歩き出そうとしたところ、
「だから言ってるだろ! 一番お美しかったのはゲートルード閣下だ!」
「いいや、違う! 銀子姐さんに決まってる! あの魅惑のボディと気風に惚れねぇヤツがおかしい!」
「いやいや、違うね! 一番はトトちゃんだっ! あのふわっふわの鬣、見てるだけで幸せになれるだろっ!」
「うーん、俺は理子姐さんが一番だと思うなぁ。エキゾティックで綺麗だよな、黒い肌って」
「フェイファーちゃんも可愛かったよなぁ。美人なんだけど、お高くとまってないとこがいい。俺、恋愛の相談に乗ってもらっちゃったー」
「あ、いいなぁ。俺も乗ってもらいたかった……」
「それを言うなら俺はアルナちゃんが」
「あ、俺も。可愛いよなーアルナちゃん。酔っ払ってるとことか、胸がキュンってなっちまったよ」
 ……などという、正しく騒ぎの元凶を示してはいるものの、出来れば心の底から無視したい類いの文言があちこちから飛び出し、一行の中でも一般的な思考回路を持った四人は思わずその場にしゃがみ込みそうになる。
 トトだけは、やったー、オレ一番っ! などと喜んでいたが。
「何でそういう理由で殴り合いの喧嘩が出来るかな、地獄の方々はッ」
「つーか、なんでその諍(いさか)いの中に本当の女の子がひとりも入ってねぇのかを俺は問いたい。もう、激しく。この場合、どう考えても森の娘たちだろう、今の会話の主体であるべきなのはさ……!」
「美人ってとこを否定する気はねぇけど、俺様男なんだよなー。野郎どもに喧嘩されてもあんま嬉しくねぇなー」
「ちゃんづけって、なんか、思わず意識が彼岸に旅立ちそうになるほどのインパクトですね。正直、驚愕を禁じ得ません……!」
 一同、騒ぎを止めに行こうという意欲も激減し、げんなりと溜め息をつく。
 彼らは、地獄は大層美しい、大層楽しい場所だと彼らは認識しているし、地獄の人々はその恐ろしい役割にも関わらず、罪なき生者たちには親切で優しい。隣人として付き合うに問題のない人たちだと思っている。
 しかし、この、価値観の違いというヤツだけは、恐らく、どう頑張っても永遠に相容れない気がする。
 思い切りテンションダウンし、もういっそ共倒れになるくらいまで放っておこうかなぁ、などと、やや自棄気味に一同がつぶやいたとき、背後から楽しげな笑い声が響いた。
 振り向かずとも、一度聴けば忘れられなくなるようなその声は、地獄で一番偉大な王のものだと判る。
「……魔王陛下……?」
 黄金の鈴を震わせるかのような、心の琴線に触れる美しい笑い声に、五人が首をかしげていると、魔王はゆったりとした動作で立ち上がった。
 ――それだけで、場の空気がすっと変わる。
「そなたらは、面白いな。……ヒトとは、真実、愛すべき生き物よな」
 淡々と静かな、しかしなぜか万感の思いを含んでいるような気がする言葉とともに、彼が一歩踏み出すと、空気の変質を感じ取ってか、地獄の人々の巻き起こす喧騒が、まるで潮が引くように収束してゆく。
 魔王が立ち上がっていることに気づいた地獄の住民たちが、美しくすらあるほど統制立った動きで、恭しく、敬意と愛情とを込めてその場にひざまずき、深く頭(こうべ)を垂れた。
 静けさを取り戻してゆく会場、地獄の人々の中心に悠々と立ち、
「我は地の獄の王にして神。すべてを統率するもの。これしきのこと、客人方の手を煩わせるまでもない」
 歌うように告げた魔王が、黄金の双眸をゆったりと細めるのを、五人は何か、不思議なものを見るような目で見つめていた。



 魔王陛下の出座に、喧騒は嘘のように静まっていった。
 健全な賑やかさを取り戻した宴会会場は、今、食後のお茶に華やいでいる。
 もちろん、今の主役は『楽園』のスイーツたちだ。
 真禮の料理に合わせたのだろう、今日のデザートは皆、目にも鮮やかなイタリアン・スイーツばかりだった。
 アマレットの薫り高い風味が秀逸なティラミス、かぼちゃ型のケーキの中に、たくさんのドライフルーツを混ぜ込んだクリームを詰めたズコット、爽やかな酸味が身上のオレンジ・タルト、カラフルなフルーツをシロップとともに混ぜ合わせたマチェドニア、たくさんのベリーと刻んだチョコレートで飾り付けられた爽やかなレモン風味のサルサ・イングレーゼなど、どれもが華やかで、心を楽しくさせる。
 好みのスイーツを取り分けた紙皿と、森の女王が特別に愛情を込めて育てたというお茶が銘々に配られ、人々は、宴会の喧騒のあとの、ゆったりとした和やかな時間を楽しんでいた。
 特に甘いものが好きな理月には至福の時間のようで、彼はゴスロリワンピースも女装のことも忘れて極上のスイーツに舌鼓を打っていた。
「このティラミス、最高だな……コーヒーとアマレットの配合が絶妙だ。やっべ、感動のあまり涙が……!」
「理月さんのそういうところは、なんというか可愛らしいですな。最初のイメージからは想像もつきません」
「可愛いかどうかはさておき、や、でも美味くねぇ? スイーツってさ、レシピを守ればそれなりのものは出来るんだけど、それをワンランク上げるにはすげぇ努力が必要なんだぜ」
「そうなのですか。確かに、このマチェドニアというのも、フルーツの味とシロップの風味が巧くマッチして美味しいです」
「この、なんだっけ……そうそう、ズコットも、かたちは面白ぇけど美味いぜ。ドライフルーツがすごく味わい深い。お、フェイファーさんのそれも美味そうだなぁ」
「ああ、オレンジの爽やかさがハーブティとすっごくよく合うんだな。俺、タルトってカラフルで綺麗だからもともと好きだったんだけど、こんな美味いのは初めてだぜー」
「爽やかなのが好きなら、フェイファー君、このサルサ・イングレーゼというのも試してみるといい。流動的なレアチーズケーキを思い起こさせる味だ、濃厚なのに食べやすい」
「へえー、ならちょっといただいてみるかな」
「このお茶も美味しいですね」
「そうだな、こんだけ芳醇な香りなのに、全然渋みがねぇ。飲みやすいな、これは」
「華やかなのに、落ち着く味わいだな。そうそう手には入らない類いの茶葉なんだろう」
「ま、女王陛下の格別の愛情を受けて育ってる茶らしいからなぁ。つーかトトは、こういうカップはちょっと飲みにくそうだな」
「……おう、口の構造がこれだからな。おまけに猫舌だし、オレ」
「あ、今ちょっとその可愛らしさに萌えた」
「……理月さんのそういうところって、外見や役割とのギャップがすごすぎますよね……」
 まったりと、のんびりと、穏やかに、一同がそんな会話を交わす中、銀二の視線は隣で優雅にカップを傾けている魔王陛下に注がれていた。
 魔王は、賑やかに……楽しげにスイーツを貪る地獄の人々や、地獄の貴公子たちと談笑する『楽園』の面々、そして招待客である五人を穏やかな眼差しで見つめながら、黙って、何かの物思いに耽っているようだった。
 その美しい、儚くすらある横顔に、お節介と理解しつつも、つい銀二は声をかける。
「……どうかしたか、魔王陛下? 何か、考え込んでいたようだが」
「いや、――そうだな、恐らく、そなたらと同じことを」
「同じこと、ですか?」
「このまちに、共に在れる幸いを」
 白磁のティーカップを手にした魔王が、静かな微笑とともにそう言うと、五人は銘々に手を止めて微苦笑した。
 銀幕市に魔法がかかって早数ヶ月。
 その間に、たくさんの個性的な仲間が出来、たくさんの騒動や事件が起き、そしてたくさんの絆が生まれた。
 今日ここへ集ったのは偶然にも全員がムービースターだったが、ムービースターもムービーファンもエキストラも、何も関係なく、ひとりの人間、一個の存在として、この銀幕市と言う場所で時間を刻んでいる。
 そのことを、誰もが稀有と思い、貴く思う。
「……今から少し、恥ずかしいことを言うが、酔っ払いの戯言だと思って流してもらえるとありがたい」
「おやおや、銀二さんは酔っ払っておられるのですか?」
「そうとも。さっきの酒が、まだ残ってるんだ」
 いたずらっぽい笑みを含んだあーるの問いに、銀二が、おどけた仕草で肩をすくめると、周囲からかすかな笑い声が上がった。魔王陛下は黄金のアーモンド・アイズを細めて彼を見つめ、レーギーナは深い深い笑みをその紅唇に浮かべていた。
「こうして、ちょっとしんみりしたから言うんだが」
「ええ」
「――大事なものが出来たことと、それを守ろうという覚悟が出来たことには、本当に感謝してるんだ。何物にも換え難い喜びだと思う。師匠のな、背中に、いつかは追いつきたいからな」
 この夢のような魔法がいつ解けるのかは誰にも判らない。
 永遠に続くのかもしれないし、明日には途切れてしまうのかもしれない。
 それでも銀二は思うのだ。
 この世界に実体化したことで、血のつながり以上の絆を持った家族が出来、ともに戦える友人が出来、命を賭けてでも守ろうと思える存在が出来た、そんな自分は誰よりも幸せだと。
 あの、師と仰いだ男の広い背中に辿り着くためにも、銀二は、常に前を向いて歩こうと思う。斃れるならば前のめりで行こうと思う。
「ま、こんな格好してようが、ツッコミ三昧の日々を送ってようが、ようは何もかもが楽しいんだ。言ってみれば、それだけのことなんだけどな。……とまぁ、臭いことを言ってしまったな。忘れてくれ」
「いや、いいんじゃねぇの? 俺も銀幕市に実体化できて本当によかったと思うぜー?」
 苦笑とともに、照れ隠しのようにカップを持ち上げた銀二に、フェイファーが笑ってカップを掲げる。
「うん……本当に、悪くねぇと思うんだ、こういうの。酒も飯も美味ぇし、人間は面白ぇし、世界は綺麗だ。こんな、悪くねぇ世界に実体化できて、うん、よかった」
 他者に言えぬ疵ならばある。
 二度とは会えぬ相手への哀しみを抱いている。
 それでも、フェイファーは自分を幸せだと思うのだ。
 自分の名を呼び、自分を気遣い、手招きし時に肩を叩いてくれる、そんな存在がここでも出来たことを。
 だからこそ、同時に、愛を司(つかさど)る天使としての己が責務を、ここでも全うしようと思う。自分自身への矜持にかけて。
 フェイファーが言うと、彼の言葉を喜んで、精霊とでも呼べばいいのだろうか、世界に満ちるなにものかが、ふわふわと、さわさわと、楽しげにさんざめき、彼らの周囲を舞い踊った。
 それは、奇跡のように美しい光をはらんでいた。
「……俺は」
 そのまぶしい、真珠のような光を、白銀の目を細めて見つめながら、ぽつりと理月がつぶやく。
「いつ死んでもいいって思って、生きてきたけど。――本当は、今でも、そう思ってるけど。でも、」
「でも、どうした、理月君」
「うん……でも、このまま、もう少し、皆と一緒に生きるのも悪かねぇよなぁ、って、思い始めてる」
「……そうか」
「そう思わせてくれた銀幕市が、本当に好きだなぁって思うんだよ」
 喪った痛みは、きっと、彼が死ぬまで彼をかたち作るだろう。
 どこまでも彼を縛り、操るだろう。それはどこまでも、理月に、自分の価値を問いかけさせるだろう。価値の何たるかは、どうしようもないその部分は、無力な自分を責め苛み続けるだろう。
 それほど愛した人々だった。
 それだけ愛した、遠い日々だった。
 けれど、それでも、理月は思うのだ。
 もう一度、同じくらい、誰かを、何かを愛することが出来るなら、それは、まだ、もう少しは、生きていてもいいという証なのではないかと。
 だから彼は感謝する。
 彼にほんのわずか、意味を与えてくれた銀幕市と、それを取り巻くたくさんの人々に。
「――って、ガラでもねぇこと言っちまったな。俺も、うん、酔っ払ってるんだ、気にしねぇでくれよ」
「そうですか……そうですね、では、私もまだ酔いが醒めていないということで、せっかくですから少し。聞き流していただいて結構ですよ」
 照れ臭げに頬を掻く理月を微笑とともに見つめ、紅茶のカップを白い両手で包んだあーるが口を開く。
 決して口達者でもおしゃべりでもないあーるだが、こんな雰囲気でなかったら、恥ずかしくて口には出来ないだろうから、今のうちに気持ちを伝えておこうと思ったのだ。
 伝えるべきだと思うようになった、自分の変化に驚きながらも。
「銀幕市で皆さんに出会えたことは、幸せな夢だと私は思います。いつか目覚めてしまったら、きっと寂しい思いをするんでしょう。でも、寂しいと、そう思えるようになったことが、今は嬉しくもあります」
 身に負った宿業のゆえに、たくさんのものをなくし、たくさんのものを欲して生きてきた。同時に、そんな大それたことを願うだけ無駄だと、自分などには許されないのだとも思っていた。
 たくさんの痛みとたくさんの劣等感とたくさんの哀しみに彩られていた彼の生、色で喩えれば灰色に近かったそれは、しかし、自分がこの銀幕市に実体化するに当たって、驚くほど鮮やかな、驚くほどカラフルなものへと変わりつつある。
 愛すべき家族と、愉快で個性的な友人と、師と仰ぐ偉大な存在と、喧嘩をする相棒と、賑やかでアップテンポな日々と。
 得難く愛おしいそれらが、今の彼をくっきりと彩っている。
 ――たとえこれが、いつかは醒める夢なのだとしても、あーるは今の自分を幸いだと思う。
「もしも、目覚めたあと、見ていた夢を忘れてしまったとしても、きっと、この暖かい思いは忘れないと思います。――ですから、今、ここに在ることに感謝します。すべてのものに」
 ゆっくりと、噛み締めるように言葉を選びながら、あーるが思いをかたちにし終わると、開けっ広げに笑ったトトが、その大きな手で、あーるの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
 あーるはくすぐったげに……楽しげに笑い、紅茶のカップに口をつける。
「みんな、色んなこと考えてるんだなぁー」
 しみじみ言って、トトは、大きな、立派な尻尾をパタパタと動かした。
「オレはさーぁ、こんなカッコしてるから、向こうで御花の王にお仕えしてるときも、結構怖がられたんだけどさ。でも、ここの人たちは、全然ないんだよな、そういうの。……ちょっと、嬉しかったな」
 獅子型獣人といえば勇猛の代名詞だ。
 外見や性質を恐れられたことも、一度や二度ではない。
 トトを目にした普通の人間たちは、彼のその心根が、サバンナのように広くさっぱりしていることを理解できるまでは、常に一歩退いた場所から彼に関わった。
 その気持ち、恐れが理解できるから、トトは何も言わないし、気にもしていないけれど、もちろん、嬉しいことではなかった。
 しかし、銀幕市の人々はトトを恐れない。
 気さくに声をかけ、笑顔を向け、言葉をかけてくれる。
 それはトトに、あの世界で唯一自分を恐れなかった人間、白き御花の少年王を思い起こさせた。
「このまちで、色んな力や思いを持ったたくさんの人たちと、一緒に馬鹿やったり、戦ったり出来て、本当によかった。こういう出会いを考えると、運命の母神も、粋なことするんだなぁって思うよ」
 もちろん、命と魂を捧げて仕えたかの王に会えないことは、寂しい。
 けれど、ここにいる自分を、トトは確かに楽しんでいた。
「私もトトさんとお会い出来てよかったですよ」
「俺もそう思う。いや……違うな、ここにいる皆に会えて、本当によかったと思う。多分、皆が思ってることなんだろうけどさ」
 トトの言葉に、あーると理月が言い、銀二とフェイファーはうなずく。
 トトはくすぐったげに笑って、くふん、と鼻を鳴らした。
 それらを、魔王陛下が、神秘的な黄金の眼差しで、穏やかに見つめている。
「魔王陛下も、こんな風に思っていたのか?」
「……ああ、そうだな。もっとも、我は、そなたたちほど、活発には動けぬが」
「地獄の王様も大変なんだなぁ。辛ぇとか思ったりしねぇの?」
「いやいや、神さまなんてどこでもそんなもんなんだぜー? でも、それで人間が幸せになれるってんなら、仕方ねぇやーって思っちまうのが神さまなんだと俺は思うな」
「なるほど、だからこそ、地獄の人たちも魔王陛下が大好きなんでしょうね」
「さて……どうだろうな。それは、買い被りというものだろうが」
「おやおや、ご謙遜を。俺は、あなたにも、俺たちと同じものを感じるんだがな。……なんて、俺なんかに言われちゃ、迷惑かもしれないが」
「かくのごとき賛辞を受けるは、面映くはあるが迷惑とは思わぬ」
 五人の物言いに、魔王が、美しいとしか表現できない笑みを浮かべる。
 ――ふと見ると、いつの間にか、唯瑞貴は眠っていた。
 真禮の膝を枕代わりに、静かな寝息を立てている。
 どこか稚(いとけな)くすらあるその光景に、五人が苦笑すると、
「……そなたらに頼むが、一番やもしれぬな」
 静かな、しかし慈悲深い視線を唯瑞貴に向け、魔王がつぶやいた。
「頼む、とは?」
 首をかしげた銀二の問いに、魔王は小さく首を横に振る。
「何、とはまだ言えぬ。地獄の外の出来事は不確定要素が多すぎて我には読みきれぬのだ。だが……」
「だが、なんですか? 唯瑞貴さんに、何か起きるということですか?」
「恐らくは」
「ってことは、それはつまり、銀幕市に、また、何かが起きるってこと、か?」
 理月の疑問は、ごくごく自然なものだったが、魔王はそれには答えなかった。答えられなかった、が、正しいのかもしれない。
「……その子は、不幸な子だ。星ノ王の魂を宿したがゆえに、様々な欠落を抱えることになった。それは逃れられぬ宿業だ、我にもどうにも出来ぬ」
 答えない変わりに、別のことを口にした。
 穏やかな目で唯瑞貴を見下ろした真禮が、色鮮やかなターバンに絡まった黒髪を、長い指先で解いている。
 魔王は、それを、わずかな悼みを込めて見つめた。
「欠落を知ることは出来ても認識は出来ぬまま、不幸の意味は理解しても自分が不幸であることには気づけぬまま、数え切れぬ不都合を、不都合とは知らずに抱えてここまで来た。その歪みが、いずれ、大きな事件をもたらすことになるだろう、その子の命に関わるような」
 魔王陛下の背後で、義兄ゲートルードが小さな溜め息をついた。
 それは純粋に、唯瑞貴の行く末を案じる溜め息だった。
「それが何なのかは、まだ、我には読めぬ。その子は可哀想な子だ。だが、優しい子だ。それゆえに、我らは常に、その子の幸いを願っている」
 真摯な黄金瞳が、五人を順番に見つめた。
 ゲートルードもまた、同じ目で五人を見つめていた。
「銀二殿、フェイファー殿、理月殿、あーる殿、トト殿。この場に集ってくれたそなたらに頼もう。どうか、唯瑞貴を助けてやってくれ」
 敬意と強い祈りとを含んだ言葉に、五人は交互に顔を見合わせた。
 まさか、こんなのんびりした場面で、そんな重い頼みごとをされるとは思ってもみなかったからだ。
 しかし、首を横に振るものは、いなかった。
「唯瑞貴君は大切な友人だ、ここで突っぱねられるはずもない。大船に乗った気持ちで任せてくれ、とはとても言えないが、十全を尽くすさ」
 力強い笑みを見せた銀二が深くうなずき、
「唯瑞貴にゃ世話になってるしな。一緒にいたら楽しいし、いなくなっちまったら寂しい、となりゃ、うなずくしかねぇだろ」
 任せなよ、と理月が胸を叩き、
「ここで会ったのも縁ってヤツだ。寛大なる天使様としちゃ、放っておくわけにゃーいかねぇよな。ま、いざって時は助けてやるよ、心配すんな」
 フェイファーは芳しい風を舞わせながらそう断じ、
「私も唯瑞貴さんのことは好きですからな。彼に危機が訪れたときには、もちろん、助力は惜しまぬつもりです」
 あーるは美しい赤瞳に強い意志を乗せて言い、
「大丈夫だって、そんな危ないヤツが唯瑞貴を襲いに来たら、オレ様がガツンとやっつけてやるから! せっかく出来た友達だもんな、なくしたくなんてねぇからさ!」
 髭(ひげ)を動かして胸を張ったトトは豪快に笑ってみせた。
 そこに偽りのない意志と友愛とを感じ取り、魔王を始めとした地獄の人々が、様々な造作の顔を、親愛と感謝の色にする。
 ゲートルードが頭(こうべ)を垂れ、感謝します、とつぶやく。
 ――ざああっ、と、強く芳しい風が吹き、桜の木々を揺らして、薄紅色の花吹雪で、明るい空を婀娜に彩った。
 舞い踊る、華奢で儚い花びらの一枚一枚が、世界の美しさ、世界中に満ちる幸いを、声高に謳い歓喜しているかのように見えた。
 紅唇に美しい笑みを浮かべた魔王が、優雅な仕草でティーカップを手にする。そのカップの中にも花びらは舞い降り、薫り高い水面に、やわらかな波紋をもたらした。
「まだ、日は高い。楽しむべきことはまだたくさんある。――ゆるりとしてゆくがよい、親しき隣人たちよ」
 魔王の言葉を喜ぶように風が舞い、花びらが踊り、太陽が輝く。
 レーギーナはお茶のお変わりを配り始めていた。
 五人は顔を見合わせ、かすかに笑ってから、白磁のティーカップを銘々に差し出し、お変わりを頂戴する。
 楽しい夢でも見ているのか、眠りの淵にいる唯瑞貴は、邪気のない笑みを浮かべていた。
 太陽はまだ、力強く輝いている。

 ――いずれ訪れる、悲嘆と苦悩をはらんだ大きな激動を前にしつつも、今はまだ、穏やかな時間が流れてゆく。

クリエイターコメントえー、またしてもいつも通りぎりぎりですみません、シナリオ『【サクラサク】阿鼻叫喚(略)』をお届けいたします。

とりあえず、皆さん微妙に壊れていただこう、という明後日な決意の元書かせていただきましたが、とても楽しかったです。こういう、のんきなお話は身構えなくていいから気楽ですね。

ともあれ、皆さんの素敵なプレイングのお陰で、いろいろな意味で楽しいお花見パーティとなりました。どうもありがとうございました。
参加者の皆さんにはお礼を申し上げると同時に、ページとストーリー進行の都合上すべてのプレイングを採用できなかったことを伏してお詫び申し上げます。

これに懲りず、また、新しいシナリオにもご参加いただければ幸いです。

なお、後日になりますが、各PC様へのコメントをブログ「いぬのあしあと。」にて申し上げようと思っておりますので、お時間のあるときにでも覗きに来ていただければと思います。


それではまた、次のシナリオにてお会いしましょう。
公開日時2007-04-23(月) 22:30
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